(引用:写真AC 画像はイメージで実際とは異なるのでご注意ください。)

心霊スポット名

 母子の墓

心霊スポット名の読み方

 ははこのはか(ぼしのはか)

*「ははこのはか」と読むというものと「ぼしのはか」と読むというというものがみつかりどちらか正解かわからなかったので諸説ありとさせていただきます。

どのような場所か(概略)

徳島県海部郡海陽町にある墓地で、山間のひっそりとした場所にあります。

石が複数積み上げられた作りの墓の中に、布で地蔵のように包まれているのが母と子の墓石とされているようです。

この墓は、江戸時代末期に実際に起こった悲劇的な事件をもとに建立されたもので、命日にだけ現れる母と子の幽霊の目撃談が数多く語られています。

母子の墓の由来

時は江戸時代・天保年間。

木沢村から保瀬(現・海陽町平井)に嫁いできた女性「お杉」と、彼女の3歳になる娘「お玉」が穏やかに生活を送っていました。

ある時、村の有力者の「弥八」は、「お杉」に恋をし求愛しますが、当の「お杉」はこれを拒絶します。

求愛の拒絶に対する恨みから、村ぐるみでのいじめや村八分にまで発展し、やがて「お杉」と「お玉」は生活の基盤を完全に失ってしまいました。

追い詰められたお杉は、お玉に白装束を着せ海部川の河原で、鍬で頭を割り殺害し、飛び散る血を吸って天に向かって吐き出し、村を呪う「印(しるし)」を切って念仏を唱えながら川に身を投げました。

この時に「我死後50年にして保瀬を滅ぼす。100年、人の住めぬ地とならん」と榎の木に刻まれた言葉を残しています。

母子は小高い丘に葬られ、「母子の墓」として残されました。

1892年(明治25年)7月25日 午後2時。
突如として山が崩れ、保瀬の部落は土砂に呑まれ、47名の命が失われる未曾有の大災害が発生しました。

この「保瀬大崩壊」は、徳島県の歴史にも残るほどの惨事として現在も語り継がれています。

そして、この災害が、まさに「お杉の呪い」の50年後に起こっていることから、母子の伝説はさらに現実味を帯び、心霊スポットとしての信憑性も高まりました。

お杉が「50年後に保瀬を滅ぼす」とした理由については、嫁いだ夫に災いが起こらないようにしたのではないかという話もあります。

その後、『明治25年 保瀬大崩壊の碑』が建設されました。

概要

母子の墓の歴史

江戸時代・天保年間に母子の墓の由来となった事件があったとされており、その後母子は小高い丘に葬られました。

それからちょうど50年後の1892年(明治25年)7月25日 午後2時に保瀬大崩壊が発生し多くの犠牲者を出しました。

母子の墓が心霊スポットと呼ばれるようになった理由

(イメージ画像です。)

幽霊の目撃情報や怪奇現象の体験談が広まり心霊スポットと呼ばれるようになりました。

特に保瀬大崩壊発生の命日にあたる7月25日には心霊現象が多く目撃されているとして、地元住民の中には、命日前後は近づかないという人も多く、今もなお「霊が生きている場所」として恐れられています。

母子の墓での噂と事件

現在でも、命日である7月25日前後には次のような現象が語られています。

(イメージ画像です。)
  • 川辺に現れる、母と子の姿
  • 夜になると2つの火の玉が山の中腹に向かって昇っていく
  • 白装束の少女の幽霊が、森の中を歩いている
  • 墓の周辺で原因不明の機器トラブルや寒気に襲われる

母子の墓に現れるとされる存在

(イメージ画像です。)

母子の墓では、

  • 女性の幽霊
  • 少女の幽霊
  • 正体不明の霊

の目撃情報があります。

現在の情報

「母子の墓」として、地図には記載されておらず、『明治25年 保瀬大崩壊の碑』は地図で探すと見つけることができます。

母子墓の墓石周辺は、整備され墓石と思われる石像には地蔵の前掛けのように布がかけられ、定期的に参拝しているものがいることをうかがわせます。

『明治25年 保瀬大崩壊の碑』についても、整備が行き届いています。

近隣には家屋や資材小屋と思われる建物があり、お杉の呪いの言葉通りの人の住めない場所にするというものは成し遂げられていない状態ではあるものの、近隣の家屋や建物はわずか数件のみで、あるいは数十年後には、そうなるかもしれないと想像される場所です。

母子の墓を訪れたことのあるYouTuberと訪れた際の動画タイトル

心霊スポットとしての知名度から、以下のYouTuberが訪問しています。( *敬称略)  

などの訪問があります。

当サイトの母子の墓の指標

当サイトの指標を「恐怖度」・「知名度」・「人気度」・「話題度」にわけて、勝手にランク付けしました。 一般的な指標とは異なり調査結果に基づく個人的な視点からの点数であるため、エンタメ的な感覚で見ていただけると幸いです。  

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恐怖度

知名度

人気度

話題度

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母子の墓を調査しての感想

母子の墓は、背景には悲しい言い伝えが残っています。

村ぐるみでのいじめや村八分にするという行為は昔の時代にはあったことなのかもしれませんし、権力者の力に負けて致し方なくという場合もあったかもしれません。

実際に起きたことなのか、脚色も少し織り交ぜられているのかはわかりませんが、実際に母子の墓が存在しているのでそれに近いことはあったのかと思われます。

ちょうど50年後に保瀬大崩壊が起きて多くの命が失われていますので、すさまじい怨念みたいなものも感じます。

保瀬大崩壊の起きた日の近い日に親子の霊が目撃されているので、もう恨みの念は消えているのかもしれなという想像もされます。ただ、その時期だけの目撃情報だとしたら、年に1度しか会えないのかもとの想像もできそれはそれで少し寂しい感じました。

機材トラブルがおきたり白装束の少女を見てしまったら、恐怖を感じるかもしれませんが個人的にはそんなに怖さを感じず、あの世では親子仲良く連れ立っている姿を想像しました。

親子の墓は昔のものなので石で作られたような像ですが布の前掛けのようなものがまかれて、花が添えられるなど今もなお供養するものがいることを知ることができます。場所はわかりにくく場所を突き止めた人も地元の人に聞いたということなので、行ってみたい場合は地元の人に聞いたりしていく必要がありそうです。

注意事項(免責)

本記事はネット上の情報、メディア報道、個人の体験談を元に構成しており、事実を断定するものではありません。心霊スポットの訪問は自己責任でお願いします。また、現地が私有地の場合は無断で立ち入らないようにしてください。  

母子の墓のアクセス情報

母子の墓の住所

*母子の墓については場所の特定が難しく『明治25年 保瀬大崩壊の碑』の情報になっていますのでご了承ください。

 〒775-0411 徳島県海部郡海陽町平井76−1

住所の読み方

 とくしまけん かいふぐん かいようちょう ひらい76-1

最寄り駅

 牟岐線 阿波海南駅

アクセス方法と所要時間

 牟岐線 阿波海南駅から車で26分(21.6㎞)(国道193号経由)

駐車場の情報

 徒歩1時間19分にパーキング(無料)があります。

『明治25年 保瀬大崩壊の碑』とその周辺の地図

 

最寄駅から『明治25年 保瀬大崩壊の碑』へのルート

 

『明治25年 保瀬大崩壊の碑』とその周辺のストリートビュー

  

よくある質問

▶母子の墓に現在行くことはできますか?

可能ですが、ひっそりとした小高い山にあり、場所はわかりにくいようです。

地図での検索では困難な点がありますので、行ってみたい場合は地元の人などに聞いていくようにした方がいいと思われます。また、過去にあったことなどに思いをはせ親子が浮かばれるように手を合わせていただくことをお願いしします。

▶心霊現象の信憑性は?

これらの体験談は個人の感想であり、科学的な裏付けはありません。あくまでもエンタメ的にお楽しみください。

▶ここで実際に事件が起こったのですか?

伝承や言い伝えは残っています。

保瀬大崩壊の碑については、『明治25年 保瀬大崩壊の碑』に文章が刻まれていますので、実際に行くかネットで画像の確認もできますので、確認するとどんなことが起こった場所なのか知ることができます。

お問い合わせ

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