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リライト本文案

徳島県南部を流れる海部川の山間部には、ネット上で「母子の墓」と呼ばれている場所があります。

そこに眠るとされているのは、お杉という女性と、3歳になる娘のお玉です。

伝説では、村人から迫害されたお杉が娘を手にかけた後、村への呪いを残して海部川へ身を投げたといわれています。そして、それから50年後、村をのみ込むような大規模な山崩れが発生したというのです。

実際に、1892年(明治25年)7月25日、現在の徳島県海陽町平井周辺では「保瀬大崩壊」と呼ばれる土砂災害が発生し、47人が犠牲となりました。

しかし、保瀬大崩壊が実際に起きた災害である一方、お杉とお玉の事件については、同時代の記録などから確認された史実ではありません。

この記事では、母子の墓にまつわる伝説と実際に起きた保瀬大崩壊を分けながら、心霊スポットとして語られるようになった背景を紹介します。

母子の墓とは

母子の墓とは、徳島県海部郡海陽町の山間部にあるとされる墓、または供養のために置かれた石造物の通称です。

一般の地図に「母子の墓」という正式名称で登録されているわけではなく、正確な場所や墓石の由来についても、公的な資料では確認できません。

現地を調査した人の記録では、山間部に石を積み上げたような場所があり、布を巻かれた石造物や供え物が確認されたとされています。ただし、それがお杉とお玉の墓であることを示す碑文などは紹介されていません。

読み方についても、「ぼしのはか」と紹介する情報と「ははこのはか」とする情報があります。公的に定められた読み方は見つからないため、本記事では一般的に使われることの多い「ぼしのはか」として紹介します。

母子の墓の歴史

母子の墓の記事を理解するうえでは、実際に起きた保瀬大崩壊と、後に広まった母子伝説を分けて考える必要があります。

実際に起きた保瀬大崩壊

1892年(明治25年)7月25日午後2時頃、台風に伴う豪雨によって海部川沿いの山腹が大規模に崩壊しました。

崩壊した土砂は約200万立方メートルに及び、海部川をせき止めて巨大な天然ダムを形成しました。住宅4戸が埋没し、8戸が流失、住民や山林で働いていた人を含む47人が犠牲となっています。

翌26日の夜には天然ダムが決壊しましたが、下流の集落に危険が伝えられ、住民が避難や堤防の補強を行っていたため、決壊による新たな人的被害はなかったとされています。

現在一般的に使われている「保瀬」という地名についても、もともとは「保勢」と書かれていたものが、明治時代の新聞記事で「保瀬」と誤記され、そのまま広まったとする説があります。

お杉とお玉の伝説

母子伝説では、江戸時代の天保年間、木沢村から保瀬へ嫁いだお杉が、3歳になる娘のお玉と暮らしていたとされています。

やがて村の有力者である矢八に言い寄られたお杉は、その求めを拒否しました。

矢八はそれを恨み、村人を巻き込んで母子を村八分にしたといわれています。なお、有力者の名前は「弥八」と表記される場合もあります。

追い詰められたお杉は、海部川の河原でお玉を手にかけた後、

「我死後50年にして保瀬を滅ぼす。100年、人の住めぬ地とならん」

という趣旨の言葉を木に刻み、娘を抱いて川へ身を投げたと伝えられています。

その後、母子は川から引き上げられ、小高い丘に葬られたというのが「母子の墓」の由来です。

ただし、この事件を裏付ける江戸時代の記録や公的な郷土資料は、今回の調査では確認できませんでした。

現在広く知られている詳しい物語は、2000年に文芸社から刊行された中山雄太郎氏の『凄まじき女の怨念』と内容が重なります。同書は郷土史料ではなく、小説として分類されている書籍です。

現地を訪ねた人の記録には、地元の人から「そのような伝説ではない」と言われたという報告もあります。ただし、これは一つの現地取材記録であり、地域全体の見解とまでは断定できません。

このため、お杉とお玉の物語は「実際に起きた事件」ではなく、保瀬大崩壊と結び付けられて広まった伝説として扱うのが適切だと思われます。

母子の墓が心霊スポットと呼ばれるようになった理由

母子の墓が心霊スポットとして知られるようになった最大の理由は、母子が残したとされる呪いと、実際に発生した保瀬大崩壊が結び付けられたことです。

伝説では、お杉は「死後50年で保瀬を滅ぼす」と予告したとされています。

そして、江戸時代末期に母子が亡くなり、約50年後の1892年に保瀬大崩壊が起きたという筋書きが語られるようになりました。

ただし、母子が亡くなった正確な年は確認されていません。天保年間は1830年から1844年まで続いているため、保瀬大崩壊までの期間にも幅があります。

そのため、「予告からちょうど50年後に災害が起きた」と史実のように断定することはできません。

それでも、母子の悲劇、村への呪い、実在した大災害という三つの要素が重なったことで、強い印象を残す怪談となり、心霊サイトや動画を通じて広まったものと考えられます。

母子の墓で噂される現象

母子の墓や海部川周辺では、次のような現象が語られています。

  • 7月25日の夜に川辺へ母子の姿が現れる
  • 母子の姿が二つの火の玉となり、山の中へ消えていく
  • 白い服を着た少女が森の中を歩いている
  • 墓の周辺で急な寒気を感じる
  • 撮影機器や電子機器に原因不明の不具合が起きる
  • 女性の声や念仏のような声が聞こえる

特に有名なのが、保瀬大崩壊が起きた7月25日に母子が現れるという噂です。

しかし、母子が亡くなった日が7月25日だったことを示す史料は確認できません。

災害発生日と母子の命日を同じ日にすることで、二つの物語が結び付けられた可能性も考えられます。

これらは、いずれもネット上や心霊情報の中で語られているものであり、科学的・客観的に確認された現象ではありません。

母子の墓に現れるとされる存在

母子の墓では、主に次のような存在が現れるとされています。

  • お杉とされる女性の霊
  • お玉とされる少女の霊
  • 白装束姿の少女
  • 二つの火の玉
  • 正体不明の人影や気配

なかでも、川辺に立つ母子と二つの火の玉の話が、母子の墓を象徴する怪談として広く知られています。

ただし、白装束の少女や電子機器の異常などは、後になって加わった心霊スポット特有の噂である可能性があります。

現在の母子の墓の情報

保瀬大崩壊の発生場所周辺には、犠牲者を供養し、災害の記憶を伝える「保瀬大崩壊の碑」が建立されています。

公開されている防災資料でも、県道沿いに慰霊碑があり、斜面には当時の崩壊土砂と思われる礫が残っていると紹介されています。

一方、「母子の墓」については一般的な地図に正式な名称で掲載されておらず、場所を示す案内板なども確認できません。

ネット上に掲載されている石造物が、本当に伝説のお杉とお玉を供養する墓なのかも不明です。

墓や供養物は、たとえ由来が分からなくても誰かが大切に守っている可能性があります。場所を探すために山林や私有地へ立ち入ったり、石や供え物に触れたりすることは避けてください。

母子の墓とYouTubeでの紹介

母子の墓は、徳島県の心霊スポットや都市伝説を扱う動画の中で紹介されています。

動画では、保瀬大崩壊の碑や周辺の山林、母子のものとされる石造物などが撮影され、お杉とお玉の伝説が語られています。

ただし、動画によっては母子の伝説を歴史的事実のように紹介しているものもあります。

実際に確認されているのは1892年の保瀬大崩壊であり、母子の事件や呪いについては伝説であることに注意が必要です。

動画による紹介が増えたことで、保瀬大崩壊そのものよりも「母子の呪いによって村が滅びた場所」という印象が広まり、心霊スポットとしての知名度が高まったと考えられます。

当サイトの母子の墓の指標

当サイトでは、母子の墓を「恐怖度」「知名度」「人気度」「話題度」の四つに分けて評価しました。

恐怖度:★½☆☆☆(1.5)
知名度:★☆☆☆☆(1.0)
人気度:★☆☆☆☆(1.0)
話題度:★☆☆☆☆(1.0)

平均得点:1.125

母子による呪いと実在した大災害が結び付けられているため、物語としての怖さはあります。

一方、全国的な知名度や訪問動画の数はそれほど多くなく、現在も限られた心霊・伝説情報の中で知られている場所という印象です。

母子の墓を調査しての感想

母子の墓について最初に調べたときは、お杉が残した呪いの予告どおり、50年後に村が大崩壊によって滅びたという話に強い怖さを感じました。

しかし、改めて調査すると、保瀬大崩壊は実際に起きた災害である一方、お杉とお玉の事件は史料によって確認されたものではありませんでした。

母子の伝説の詳しい内容が、2000年に小説として刊行された本によって広まった可能性があることも分かりました。

そう考えると、母子の呪いによって山が崩れたというよりも、実際に起きた大災害の記憶に、後から悲しい母子の物語が重ねられたのかもしれません。

保瀬大崩壊では、住民だけではなく、長雨を避けて滞在していた山林作業員も含め、47人が犠牲となりました。

そのため、この災害を呪いの結果だけで語ってしまうと、犠牲になった人々や、災害から地域を立て直した人々の記憶が見えにくくなってしまうようにも感じます。

一方で、誰かが石造物に布を巻き、花などを供えている様子からは、そこに眠るとされる人を現在も供養している人がいることがうかがえます。

母子の墓の正体や伝説の始まりははっきりしません。

だからこそ、心霊スポットとしてだけではなく、実際の災害と、そこから生まれた物語の違いを考えさせられる場所だと感じました。

母子の墓のアクセス情報

母子の墓があるとされるのは、徳島県海部郡海陽町平井の海部川流域です。

山や川に囲まれた地域で、保瀬大崩壊の慰霊碑は公開資料でも確認されています。

一方、母子の墓については正式な位置が確認されておらず、本記事では詳細な住所や進入経路を掲載しません。

この記事は現地への訪問や、墓を探すことを勧めるものではありません。

保瀬大崩壊の碑と周辺の地図

※地図は保瀬大崩壊が起きた地域や慰霊碑周辺の位置関係を確認するためのものです。母子の墓そのものの場所を示すものではありません。

保瀬大崩壊の碑と周辺のストリートビュー

※周辺の地形や雰囲気を確認するための参考情報です。

よくある質問

▶母子の墓は実在しますか?

母子の墓と呼ばれる石造物を撮影した記録はありますが、それがお杉とお玉の墓であることを証明する公的な資料や碑文は確認できません。

そのため、墓のような石造物は存在するものの、伝説の母子の墓であるかどうかは不明です。

▶保瀬大崩壊は本当に起きたのですか?

1892年(明治25年)7月25日に実際に発生しています。

台風に伴う豪雨によって山腹が崩壊し、海部川がせき止められ、住宅の埋没や流失によって47人が犠牲となりました。

▶保瀬大崩壊はお杉の呪いによって起きたのですか?

呪いによって起きたことを示す証拠はありません。

防災・地質資料では、台風に伴う集中豪雨によって発生した大規模な斜面崩壊と説明されています。

▶母子の墓へきもだめしに行くことはできますか?

母子の墓の正確な場所や土地の管理状況は確認できません。

墓や供養物がある場所をきもだめしの目的で探したり、山林や私有地に立ち入ったりすることは避けてください。

▶7月25日に母子の幽霊が現れるという噂は本当ですか?

7月25日に母子や二つの火の玉が現れるという噂はありますが、客観的に確認されたものではありません。

母子の命日が7月25日だったことを示す資料も見つかっておらず、保瀬大崩壊の発生日と結び付けて生まれた話である可能性があります。

母子の墓に関する注意事項

本記事は、公的な防災資料、書籍情報、ネット上で紹介されている伝説や現地記録をもとに構成しています。

保瀬大崩壊は実際に起きた災害ですが、お杉とお玉の事件、呪い、心霊現象については事実として断定できません。

現地への訪問や、墓を探す行為を勧めるものではありません。山林、私有地、墓地などへの無断立ち入りや、供養物への接触はしないでください。

終わりに

母子の墓には、村から追い詰められた母親が娘とともに命を絶ち、50年後に村を滅ぼしたという伝説が残されています。

一方、実際に確認できるのは、1892年7月25日に豪雨によって発生し、47人の命を奪った保瀬大崩壊です。

母子の悲劇が本当にあったのか、なぜ実際の災害と結び付けられたのかは分かりません。

しかし、事実と伝説を分けて見ていくことで、単なる呪いの話ではなく、土地に残された災害の記憶と、それを語り継ぐ過程で生まれた物語が見えてきます。

母子の墓は、幽霊の噂だけではなく、史実と伝説が複雑に重なった場所として、現在も静かに語られ続けています。

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